「袖振り合うも他生の縁」【キリー・クレイトンの章】【scene.past】その日、キリー・クレイトンは奇妙な感覚を一日中感じ取っていた。いや、その日に限った事ではない。ここ数日、奇妙な違和感は続いていた。誰かに見られているような、耳の奥がチリチリと疼くような不快感・・・。見られる事に抵抗はなかった。むしろ、慣れているという事ではあるが。彼自身が望んだかどうかは知る由も無いが、彼は自他ともに認める、整った顔立ちと均整の取れた体躯を持ち合わせていた。まるでモデルのような甘いマスクはすれ違う女性の大半を振り向かせる自信があったし、事実そうである。また長身に神父姿はよく似合うのだが、ここに四六時中黒い手袋を嵌めているという要素が加われば、否が応でも目立つ上に、噂にもなるというものだ。 たしかに過去にわたって数え切れない程、男性特有のやっかみから恨みを買うことは多く、また実際に実力行使に出られたことも数多くあった。もっとも、彼らの大半は病院のベッドの上で己の行為を悔いることになるのだが。だが、今回はそういった殺意や悪意といった感覚とはまた違っていた。それはそれで始末が悪いのだが・・・。 人通りの少ない自然公園の入り口を潜ったところでキリーは立ち止まった。 日は既に落ち、気温の変化による為か、モヤも発生している。だが、彼にとってそのような事は大した問題ではなかった。 「人につけまわされるというのは・・・あまり気分のよいものではありませんねぇ」 ゆっくりと振り返り、まるで子供に諭すような口調で呟く。誰もが微笑みかえしたくなるような笑顔で。だが、その笑みがほんの一瞬だけ歪んだ。いや、歪んだというより、戸惑いの表情を浮かべた。 そこには誰も立っていなかった。即座に『違う』と彼の五感を越えた感覚が囁く。 やがて、彼の正面の空間が僅かに揺らいだ。いや、そう感じただけかもしれない。大切な事はただ一つ。いつのまにか目の前に見知らぬ少女が立っていたという事だ。だが、その変化にもキリーが表情を変える事は無い。 「どなたですか・・・?」 相手を見下ろし、だが口調はあくまで優しく問い掛ける。 『・・・ミリシェ・・・』 愛らしい小さな唇を僅かに動かし、それだけ呟く。 「そうですか。申し遅れましたが、わたしはキリー・クレイトンと申します。さて、あなたは何者ですか?」 キリーは身体が半分透けてみえる少女にそう尋ねた。年の頃は、13、4というところか。ワンピースをまとっているように見えるが、どうも輪郭がぼやけていてよくわからない。もっとも、キリーはもともと服装には詳しくないのだが。 ミリシェと名乗った少女は首を横に振り、かわりに消え入りそうな声で何事か呟いた。いや、呟いたように見えただけかもしれない。そしてにっこりと微笑む。その瞳の奥に光はない。ただ虚無な、漆黒の闇だけが広がっていた。 【scene.1】やっかいで頭にくる事件だ。 街頭の光の届かぬ路地裏を疾走する一つの影は、無感情に呟く。 内懐に手を差し伸べると、指先に冷たい塊が触れた。思わず反射的に手を引っ込める。どうも好きになれないな・・・と、誰に伝えるでもなく、呟く。 十字路に出た瞬間、月明かりが影の姿を一瞬だけ浮かび上がらせる。青年だった。漆黒の髪はこの地では珍しい。彼は生粋の日本人であった。だが、彫りの深いその顔立ちや見事な体躯は洋装がよく似合う。影の名は響 綾沙といった。 綾沙の5メートル前方には彼が追いかけている人物の姿がある。相手はここしばらく、ロンドン市内を騒がせていた連続誘拐事件の容疑者の一人であった。月はまた厚い雲に覆われ、闇の世界を作り上げている。この中を全力疾走するなど、常識では考えられない事だろう。 既にこの追跡劇は20分近く続いている。常人であれば、当の昔に音を上げているだろう。だが、少なくとも綾沙の表情には余裕があった。 やがて、前をいく影が立ち止まった。いや、立ち止まらざるを得なかった、というべきだろうか。綾沙はいつのまにか相手を袋小路に追いつめていた。 「さぁ・・・どうする・・・?」 わざとゆっくり、内懐から黒い塊を取り出した。35口径のオートマグナムは、先月購入したばかりのものだ。扱いは難しいが威力のある銃である。 「抵抗しなさんなよ」 その言葉に反応し、相手はゆっくり振り替える。年の頃は30代後半。左手の薬指にリングを嵌めているのが見えた。 馬鹿な事をしたもんだ。口に出さず、綾沙は狙いを定める。場合によっては死なない程度に撃ち込んでやるつもりだった。 「これからいくつか質問する。お前さんは正直に応えればいい。そうすれば命まではとらんよ」 これじゃまるで俺が悪役だな。自嘲気味に胸中で呟き、右手でジャケットのポケットから薄汚れた手帳を取り出す。左手は銃の狙いを定めたままだ。 「お前さんの名前はレスター・グランヴィル、年齢38、奥さんの名前はウェンディ、年齢35、5年前に某パーティーで知り合い、1年の交際の後、結婚。3年前、子供を身ごもるが、流行り病にかかり、流産・・・」 「・・・貴様は探偵か・・・!?」 男が初めて声を発した。だが、綾沙はちらりと一瞥しただけで言葉の先を続ける。 「ご名答。話を続けよう。お前サンたち二人はその半年後、ある組織に参加する。組織の名は【月の谷の民】・・・最近活動の活発化してきた秘密結社・・・そうだな?」 男の表情に緊張が走った。汗が吹き出し、視線が泳ぎはじめる。 「本題はここからだ。ここ一ヶ月、巷を騒がした連続誘拐事件はお前らの仕業だな?」 「・・・さあな」 そう応えた瞬間、銃声が響き渡る。一瞬のうちにレスターの右手首が半分の太さになっていた。 「う、ガアァァッ・・・!」 「騒ぐな。もう一発食らうか? 悪いが、気が短いんでね。ついでに言えば、あの事件がお前らの仕業だって事の裏は取れてる。誘拐された人数、ざっと12人分の死体、ちょいとばかりパーツが足りなかったが・・・お前たちが偽名で借りていた建物の地下から見つかったよ」 すっ・・・と綾沙の表情が消えた。瞳が冷たい光を放ち、レスターを射抜く。 「だが問題はその部分じゃない。お前ら、あそこで何をしていた? お前らの中に高度な召喚術の使える奴がいる、って話は聞いてないぜ?」 「ふ、ふふ・・・そうだ・・・思い出したよ。日本人が一人、結社の事を調べてるらしいってな・・・」 観念したのか、自嘲気味な笑みを浮かべ、べっと唾を吐き捨てる。 「だけど、それを知ってどうするつもりだ? 我々の企みを阻止するのか・・・?」 「ま、そーゆー事が好きな奴を知ってるがね。あいにくと俺は仕事で調べてるんだ。さ、応えてもらおう。裁きはこの国の方にお任せしてやるからよ」 「・・・裁き・・・? ふん、必要ないな。裁かれるべき身は・・・清浄なる大地に巣食う貴様らだ!」 その瞬間、ボムッと鈍い音をたて、男−レスターの背中が爆ぜた! そしてぐちゃぐちゃになった背中からにょきりと黒くて先の鋭いものが生えてくる。綾沙はわずかに眉をひそめた。だが、その表情に怯えや恐怖といった感情は浮かんでいない。レスターはがくりと一度はげしく首を振り、動かなくなった。だが、背中からはまだ何か別の生き物が蠢いている。耳障りな音を立て、背中から這い出そうとしているもの――、それは蜘蛛だった。ただし、サイズが明らかに違う。胴体部分だけでも長さ50センチ以上はあった。青黒い腹に、ぬめりとした赤い血液がこびりついている。 「くだらねぇもの飼ってンじゃねーよ・・・」 短く吐き捨て、綾沙は銃弾をすべて叩き込んだ。立て続けに轟音が鳴り響き、硝煙の臭いが辺りに立ち込める。その表情に躊躇いの色はない。瞬く間に蜘蛛の身体は半分ほどに削られた。だが、それでもその蜘蛛は動いていた。しかし慌てるふうでもなく、無造作に近づいて右拳をその背中に叩き込む。ほんの一瞬、蜘蛛の身体が淡い光に包まれた。蜘蛛はびくりと痙攣し・・・やがてぐずぐずと溶け出す。そして後にはレスターの死体だけが残された。 「用意のいいことで」 ぽっかりとあいた背中から、内臓がすっかり食い散らかされているのが見えた。己の命を媒介にして召還したのか、何らかのきっかけで蜘蛛が内臓を食い破って発現したのかはわからない。もっとも、わかったところでどうなるというものでもないが。 銃を懐にしまい、レスターの着衣を探る。だが、なにか事件の手がかりになるようなものは出てこなかった。もっともあらかじめ予測していたのか、落胆の表情など見せず、死体に背を向ける。 「やれやれ・・・厄介で頭にくる事件だ・・・」 短く吐き捨て、綾沙はその場をあとにした。 【scene.2】「アップルティーを三つ、もらえますか?」 注文を取りにきた長い金髪を三つ編みにしたウェイトレスにそう告げる。 ある日の昼下がりのことだ。 キリーは開店して間もない、オープンテラスの喫茶店を訪れていた。何度かそばを通った事はあったが、中に入るのははじめてである。店内にはカウンターと四人がけの四角いテーブルが二つ、屋外には白い丸テーブルが三つ、椅子は二つずつ設置されている。店内の端のほうにいくつか椅子が山積みされているが、今のキリーには必要のないものだ。表の空いているテーブルを見つけ、おもむろに座る。利発そうな少女が小走りに駆け寄ってきたのは、それからまもなくだった。アルバイトなのだろうか、淡いこげ茶色の制服が真新しい。そして注文を取ろうと口を開きかけ・・・表情が固まっていた。 「失礼。注文、聞こえませんでした?」 それまで僅かに頬を上気させていたウェイトレスは、キリーの言葉で少し冷静さを取り戻す。彼女は宝石のような蒼い瞳を少し伏せ目がちに尋ねた。 「あの・・・三つ・・・ですか?」 どう見てもテーブルについているのは彼一人だ。待ち合わせでもしているのだろうか・・・などと考えていると、キリーは事もなげに、 「ええ。貴女の分も含めて。ご一緒にどうですか?」 そう答えて微笑む。少女は体温が確実に二度は上がったに違いないと奇妙な確信をしていた。 「す、すみません・・・仕事中ですので・・・」 「そうですか。それは残念ですね。では、二つでお願いします」 ぺこりと頭を下げ、ウェイトレスは戻っていく。途中、同僚に掴まってなにやら聞かれている姿を見て自然に笑みがこぼれる。何ともいやみのない、それでいて涼しげな笑みだ。が、不意に少しだけ表情を引き締め。視線を目の前の空席に向ける。いや、そこは空席ではなかった。 「アップルティーでよかったですか?」 キリーは先ほどウェイトレスに向けたものとは微妙に違う笑みを浮かべ、手を組む。隣のテーブルについていた若い女性の二人組みは思わず周りを見渡した。 −あなた、変わってるわね キリーの思考に直接、別の意識が流れ込む。 「そうですか?」 キリーは短く答える。相変わらずアルカイックスマイルは浮かべたままに。 彼の目には、彼と向かい合って座る少女の姿がはっきりと映っていた。もしこの場に僅かでも「霊能力」と呼ばれる力を有するものがいれば、おぼろげながらでも彼女の姿を見ることができただろう。 少女の名はミリシェといった。 初めて出会ってからすでに三日が経過している。彼女の瞳に相変わらず光はないが、実体を持たないアストラル体なので仕方ないといえばそうなのだろう。何度か交流を続けていくうちに、いくつかのことが判明した。彼女は10年前、何者かに殺害されていること。ごく最近、明確な自我が目覚めたこと。そしてキリーに目をつけたのはまったくの偶然であるということ。もっとも、キリーほどの霊能力者であれば、自然と不安定なアストラル体は集まってくるのだが。 キリー・クレイトンは霊能力者である。それも、かなり高度な術を使うことのできる資質を備えた、稀有な存在であるといえよう。もっとも本人はその能力を伸ばすつもりもなく、たまたま他人には見えづらいものが見え、聞きづらい声が聞けるという認識しかない。迷惑と感じたことはないが、かといって自分に役に立つ能力と考えたことはなかった。暇つぶしにはなりますけどね、とかつてもらしたことがある程度だ。神父の道を選んだのも、実のところ自らの意思ではない。 「とりあえず、話を整理しましょう」 アップルティーの到着を待たず、キリーは切り出した。 −そうね ミリシェは小さく頷く。 「貴女の背景はわかりました。中々興味深い内容ですね。でも、私にとってはただそれだけのことです」 周囲の視線が突然独白を始めた美麗な青年に集中する。アップルティーの入ったカップを二つ、銀のトレイに載せたウェイトレス−先程とは違う、柔らかそうな栗毛を頭の上に纏めた少女−も、カップを差し出すタイミングをつかみかねていた。 「必要なのは・・・失礼、飲み物が届きましたね。一つは、その席へ」 ミリシェの座った席を指差し、出されたカップにさっそく口をつける。 「・・・思ったとおり、おいしいですね。個人的にはもう少し渋みがあったほうが好みですが。これからひいきにさせていただきますよ」 「あ・・・はい、ありがとうございます」 微妙な笑顔を見せ、ウェイトレスは下がる。またこの美しい青年神父に出会えることに喜びを感じるべきか、はたまた奇妙な常連客が増えたことを不幸に思うべきか・・・彼女はそんな馬鹿げた事を本気で悩んでいた。 「さて、どこまで話ましたか」 僅かな音一つ立てず、カップをソーサーに戻す。すでに赤みがかった琥珀色の液体は半分ほど消滅していた。 −「私にとってはただそれだけのこと」までよ 「失礼。先を続けましょう。私の興味は貴女ですよ、ミリシェ。正確にはこれから貴女が何をするのか。そして何がしたいのか、です」 キリーは一息区切り、ミリシェを見つめる。大抵の相手はキリーのまっすぐな視線に耐えられず、頬を赤らめて俯いてしまうのだが、ミリシェはただ無言だった。その表情に変化はない。 「少々陳腐な推理をしましょう。いえ、推理・・・といえるものではありませんね。私の憶測を言わせてもらえるなら・・・」 −なにかしら? 「貴女、自分を殺して欲しいんじゃありませんか?」 にっこりと微笑み、キリーは残りのアップルティーを飲み干した。 −奇妙な話ね。私はもう死んでいるのよ? 慎重に、言葉を選ぶように呟く。 「ええ、貴女は間違いなく死んでいる。奇妙な言い方になりますが、貴女のアストラル体にもまったく生気を感じません。アストラル体とエーテル体を結びつける“何か”が完全に切れている、とでもいいましょうか。にもかかわらず、貴女は明確な意識、つまりアストラル体を有している。非常に珍しいケースです。死霊・・・とでもいうのですかね。さらに私の体験からいわせてもらえば、そういったケースは現世に強い思いを残しているのが常です。多いとされるのは怨念・・・いわゆる恨みですね。ですが、貴女からはまったくそういった『負』の感情が感じられない。むしろ『憐憫』すら感じている。 率直に言いましょう。貴女を殺したのは、貴女とごく親しい人じゃありませんか? たとえば親友、恋人、そして・・・家族。あまりに身近な人間のため、恨むより哀れみに近い思いが生まれてしまった」 −たいしたものね ミリシェは僅かに微笑んだ。 「惜しいですね。貴女の瞳に生気のある笑みを見たいものですよ」 真顔で呟き、殻になったティーカップに視線を落とす。不意にすっとその表情が引き締まった。遠目から訝しげにこちらを見ていたウェイトレスを軽く右手を上げて呼ぶ。その予期していなかった事態にびっくりして、背筋がぴんと伸びたのが見えた。パタパタと音を立てて小走りに駆け寄よってくる。後で店長に怒られるに違いありませんね、などと思いながらキリーはメニューを手に持った。 「な、何か御用ですか・・・?」 「アップルシナモンティーをいただけますか?」 それが追加注文であると気づくのに有した時間は、きっかり五秒だった。 「は、はい! すぐに・・・」 「さて・・・」 話を続けようと手を組みなおしたキリーをミリシェは手で制する。 −用件だけ伝えるわね。貴方の言うとおり、私の願いは私を消滅させることよ 指先でティーカップに触れる。もちろん、触れることなどできないのだが。 −貴方の推測どおり、私は強い思いを残したまま死んだわ。だから成仏できない。さて、貴方に私を成仏させることができるかしら? 「方法は? 力ずくというのはごめんですよ。第一、スマートじゃない」 −方法はあるわ。ある男を殺してくれればいいのよ 「殺す・・・? 面白いことをいいますね、貴女。復讐ではないが、成仏するにはある男を殺して欲しいとは・・・」 −信じられないのも無理ないわ。でもね・・・ 「その話は多分ほんとだぜ」 「・・・誰です? 貴方・・・」 キリーの表情が僅かに変化する。 突然割り込んできた第三者の声の主は、いつのまにかキリーたちと同じテーブルについていた。 「俺かい? 俺は綾沙。響 綾沙だ。宜しく頼むぜ、お二人さん」 「失礼。どこかで会ったことは?」 「ないね。お、アップルシナモンティーじゃないか。俺、好きなんだよな」 運ばれてきたカップをなんの断りもせずに受け取り、さっそく口をつける。 「いやぁ、この匂いがなんともいいねぇ」 「いくつか質問に答えていただきたいのですが、かまいませんか?」 「答えられることなら何でも。おっと、それよりあんたのカップの下、なんか挟まってるぜ?」 一瞬、キリーは耳を疑った。次に今一度状況を整理してみる。 綾沙と名乗った青年がいつのまにか今自分と同じテーブルについている。問題は方法ではない。そこにいるという事実が重要なのだ。そして口調からするに、彼の目にもミリシェの姿が見えていることだろう。今確かめることは二つある。その一つを解消すべく、キリーは自分のカップに目を落とした。どこにも変わったところはない。アップルティーが飲み干されているくらいだ。いや、違う。変化はあった。 キリーは指先だけでカップをソーサーごとずらす。そこには一枚の写真がはさまれていた。 −その写真・・・! 「知り合いですか?」 その問いに答えたのは綾沙だ。口元がにやついている。邪気のない、まるでいたずらに見事引っかかった大人を見るような、そんな笑みだ。 「フォルク・ランバート。あんたが殺して欲しい男だ。違うかい?」 −・・・貴方、何者? それに、いつからそこに? 「信用してくれなくてけっこう。だが、写真はここにあり、その写真の人物はあんたを現世にとどめらせている原因だって事に変わりはない。そして俺はちょいとした事情でこいつを追っている」 「用件を聞きましょうか?」 「話が早いね。だが、俺の目的は一緒。こいつを殺して欲しい。それと、あらかじめ断っておく」 綾沙はわざと間を置いた。口元には薄ら笑いが浮かんでいる。 「こいつは人間じゃないぜ?」 悲鳴を抑えたつもりだろうか。思わずミリシェは口元を抑えていた。 「死人・・・とでも言うつもりですか?」 「ご名答。こいつは10年前に死んでる。そしてそいつを現世に黄泉還らせた馬鹿がいる。もっとも、その連中はあらかたもうこの世にはいないがね。それと、俺がいつからこのテーブルにいるかだが・・・答えは『初めから居た』だ。俺の座っていたテーブルにお前さんたちが座ってきた。ついでに言わせてもらえれば、写真も初めからあんたの前においてあったんだぜ? ま、ウェイトレスも気づかないで、その上にティーカップを載せちまったがな」 ―嘘よ! このテーブルには誰もいなかったわ 「嘘じゃない。ただ、あんたらが見ようとしなかっただけさ。その存在に気づこうとしなかった。だから気づかなかった。お前さんらの感覚に認識されなかったのさ。わかるかい?」 訳のわからない説明だった。ミリシェは言葉を失い、キリーに助けを求める。まるでペテンにかけられているようだった。しかし、キリーは何事もなく頷く。理解できた・・・というより、あえて無視したという表情ではあるが。 「わかりました。それと・・・」 キリーは真剣なまなざしで綾沙の持つティーカップを指差す。 「それ、おいしいですか?」 ぽかんと呆れ顔になるミリシェ。綾沙も一瞬言葉を失った。が、やがて腹を抱えて笑い出す――。 「・・・ハッ! あんた、気に入ったよ」 席を立ち上がり、アップルシナモンティーを飲み干す。だが、質問の答えにはなっていなかったので、キリーは表情を僅かに曇らせた。そんなことにはまるでお構いなく、綾沙は懐からくたびれた黒い手帳を取り出し、ボールペンでなにやら走り書きする。書き終わると。そのページを破ってキリーに手渡した。 「そいつはその寂れた建物の地下にいる。ま、ただの人間には気づかないだろうが、あんたなら大丈夫だろ。期待してるぜ? もっとも、報酬は出ないけどな。おっと・・・」 少しおどけて見せた拍子に指先からカップが滑り落ちる。ミリシェは短い悲鳴をあげ、キリーは興味深げにその動きをじっと見詰めた。しかし、カップの落下運動が非常に緩慢に見えたのは気のせいだったろうか。まるでスローモーションのような動きでテーブルに激突、澄んだ破砕音を立てて砕け散る――ことはなかった。 半瞬後。 キリーはいつのまにか右手に奇妙なものを持っていることに気づいた。見たところ、一枚の写真と手帳を破った紙切れのようだ。写真の男に見覚えはない。また、紙切れにはおそらく急いで書いたものと思われる筆跡で住所が書いてあった。無論、その住所に見覚えはない。だが、その写真を見たミリシェの表情が変わった。 −その写真・・・! 「知り合いですか?」 直後、ふと漠然とした奇妙な錯覚に襲われる。同じ事を繰り返しているような、そんな形容しがたい感覚。しかし、思考はミリシェの声によってさえぎられた。 −フォルク・ランバート・・・その住所も知っているわ キリーの手に持った紙を指差し、搾り出すように呟く。 「行ってみますか? そこへ行けば何か進展する。貴女はそう思っているんじゃないですか?」 ゆっくりと頷くのを確認し、キリーは席を立つ。道が決まった以上、ここにこれ以上とどまる理由はない。今度はアップルシナモンティーを頼んでみようか、などと考えながら支払いを済ませようとレジに向かう。しかし、 「いえ、料金はもういただいておりますので」 妙齢の会計担当はにっこりと微笑んだ。一本に編まれた長い金髪が胸の前で僅かにゆれる。 「それは助かります。ですが、一体どなたが支払っていったのか、ご存知ですか?」 「さぁ、お名前までは・・・黒髪の、外国の方のようでしたが」 「そうですか。ま、いいでしょう。それでは」 −一体、どうなっているの? その写真といい、ここの支払いといい・・・ 「さて。親切な方が見えないところから手を貸してくれているだけでしょう。まぁ、今のところ悪意は感じられませんので大丈夫ですよ」 キリーにとって、すべては状況のひとつにしか過ぎない。 要は、私の退屈しのぎになるかならないか、ただそれだけですよ。 無意識のうちに口元に笑みが浮かぶ。それはぞっとするほど艶かしく、また怖気すら感じさせる、なんとも形容しがたい笑みだった。 【scene.3】メモに記されていた場所は、郊外に位置する寂れた小さな街の中だった。乗せてきたタクシーの運転手も、神父さんがいかれるような場所じゃないんですがね、と言い残してすでに去っている。 10分ほど歩いた後、キリーは目的の建物の前に立っていた。 見たところ、何の変哲もない雑居ビルのように見える。周囲と違うところがあるとすれば、人の生活の匂いがまるでしないというところだろうか。また、このあたりの住民は極端に人との交流を避けているらしく、キリーの姿を見かけただけで窓のカーテンを閉めたり鍵をかけたりと大忙しである。 「やれやれ・・・」 何かこの建物について話が聞ければとも思ったのだが、その目論見は大きく外れたようだ。 「では、行きましょうか?」 ビルの入り口の簡素な扉をくぐる。鍵がかかっている様子はない。また誰かが潜んでいる気配も感じなかった。ゆっくりとノブを回し、中に踏み込む。その瞬間、首筋に濡れたタオルを乗せられたような冷たい感覚に襲われる――。 −どうかしたの・・・? 「いえ、なんでもありませんよ。つまりは、そういうことですか・・・」 奇妙な言葉を残し、そのまま後ろ向きに歩いて建物の外に出る。そして扉を閉め、扉に対して右手を翳した。 「あまり得意ではありませんけどね」 呟きながら、まるで扉に張られたチラシでも剥がすような仕草を見せる。その瞬間、扉から風が吹き出した! いや、風ではない。人の姿をしたモノたちだ。それらがまるで決壊したダムからあふれ出る水のように噴出し、二人の身体を通り抜けていく! −い、今のは・・・!? 「≪彷徨える魂≫と言うやつですよ。今、建物に張られていた結界の一部を破壊しました。今のは、結界の中に閉じ込められていた死者の霊ですよ」 あおられた髪を右手で撫で付け、小さく深呼吸する。そして黒い革手袋をしめなおし、ミリシェに向き直る。 「では、行きましょうか?」 −待って、キリー。私、貴方に言わないといけないことがあるの・・・ 「それはフォルク・ランバートのことですか? ミリシェ・・・ランバート」 キリーの言葉にミリシェは唖然とする。キリーは微笑を浮かべたまま、先を続けた。 「思い出しただけですよ。10年前の事件、この町でおきた事件のことをね。当時25歳だったフォルク・ランバートは、その頃多発していたある猟奇殺人事件の容疑者に上げられていましたね。たしか、遺体は四肢をねじ切られていました。容疑のかかった理由は、何らかの形で彼がその犠牲者とかかわっていたこと。そして、幼少の頃より彼が有していた、『見えざる手』の能力のせい・・・違いますか?」 『見えざる手』 「初めて使われたとき、たしかジュニアスクールの教師の腕をねじ切っていますね。そのおかげで様々なところから目をつけられるようになった。いくつかのフリーメーソンからも勧誘があったのではないですか? まぁ、それはともかく。理由はわかりませんが、10年前に彼はその能力を使い、人を殺害してしまった。記録では、ロンドン周辺でこの能力が確認されているのは彼一人。すぐに容疑をかけられたはずです。もっとも、アリバイもなかったそうなので、能力の関係あるなしにして彼は捕まっていたでしょうけどね。そしておそらくはそのことで口論となり、貴女をも殺害してしまった。すなわち・・・母親である貴女を。もっとも、現場に貴女の遺体はなかったそうですが?」 −詳しいのね、やけに 「ええ、まぁ・・・少々興味がありましてね」 一瞬、微妙な感情のごちゃ混ぜになった表情になる。 「でもね、そのようなことはもう大した問題ではないのですよ、ミリシェ。そして、そのことは貴女もよく承知しているはずだ」 その言葉に無言で頷いてみせる。キリーが結界を破った直後から、ミリシェのアストラル体が希薄になっていた。完全に消えてしまうのも、おそらく時間の問題だろう。原因はおそらく、自分のいるべき場所を思い出した為と推測される。無意識のうちに身体のある場所に戻ろうとしているのだ。 「何か、言い残すことはありますか?」 −そうね。息子のことをお願いします。それと・・・実は私が50過ぎのおばあちゃんだとわかって、がっかりした? 悪戯っぽく、だが少し寂しそうに微笑みながら問い掛ける。 「いいえ。言ったでしょう? 私が興味あるのは、貴女の行おうとしていることだと。ご心配なく、貴女の憂いは見事絶って見せますよ」 「さて・・・」 再び足を踏み入れた建物だが、見た目が変わった訳ではなかった。変わったのは、気配だ。そして死臭。肌にぬめり付くようなそれは、常人であれば数分と持たないほど、異常なまでの密度を有している。しかし、キリーはその中を顔色一つ変えず・・・否、むしろ微笑すら浮かべて歩を進めていた。 はいってすぐに、地下に続く階段が見える。設置場所がいささか不自然に見えるのは、おそらく後から付け足したものだからなのだろう。戸惑うことなく階段を降りると、更に死臭の濃度が増す。感覚が狂っていくのが確かに感じられた。 果たしてどれだけ降りたのか。時間にして一分もかかっていないはずだが、まるで丸一日歩きつづけたような、例えようのないけだるさが全身に感じられる。だが、その蝕まれた身体の感覚すら、キリーにはある種の快感を感じていた。そう、ここにはすべてが存在し、同時に「死と生」しか存在しない。そのアンバランスさがココロを高揚させる――。 階段を降りきると、そこは小さなフロアが広がっていた。半径10メートルほどの円形のフロアである。高さは3メートル弱、天井には申し訳程度の電球がいくつかぶら下がっていた。それでも、室内を照らすには十分である。そして、部屋の中心では半裸の男がこちらを睨んでいた。 「誰だ・・・?」 くぐもった声だが、かろうじて聞き取ることが出来る。耳障りな声、というのが第一の感想だった。 「キリー・クレイトンと申します。確認いたしますが、貴方はフォルク・ランバートですか?」 「・・・お前、どうやってここにきた・・・?」 「質問しているのはこちらですよ。もっとも、否定されませんでしたので肯定と取らせていただきますけどね」 だらりと右腕をたらす。その手のひらに淡い光が纏わりついた。 「早速ですが貴方、死んでください」 にこりと微笑み、キリーは男に向けって右手を突き出した。 幾条もの光が走り、男-フォルクの身体を切り裂く! 「霊能力・・・? ふん、久しぶりに殺りがいのある相手かよ・・・」 ずるりと顔の皮膚がずり落ちる。ピンク色の筋肉組織が姿を覗かせた。しかも、所々えぐられたような痕があり、頭骨の見え隠れしている部分もある。出血はない。いや、痛覚を有しているかどうかすら怪しいところだ。 「文字通り、人の皮をかぶっていたわけですか? 悪趣味ですね」 「そりゃどうも。だがアンタ、俺と同じ眼の色してるぜ・・・?」 「・・・どういう意味です?」 「しらばっくれるなよ」 のそりとこちらに向かって動き出す。その動きを目で追った瞬間、両足に鈍い痛みを感じた。視線を痛みの感じた部分に向ける。 「なるほど、大した能力ですね」 キリーの両足―膝間接から下が90度ほど捩れていた。 「た、助けてくれ・・・!」 不意に情けない声が飛び込んできた。何気なくそちらに視線を向けると、ホールの端のほうに何人分かの人間が転がっているのが見える。それらは皆、一様に身体のどこかしらから捩切られていた。声を発したのはそのうちの一体だった。遠めではっきりとわからないが、胴体が180度捩れ、両足は膝から下が捩切られているのはわかる。生きていた、というよりも死に損ねたというところだろう。 「いいのかよ、よそ見して」 ふっとフォルクの姿が消える。次の瞬間、彼の右手はキリーののど元を捕まえていた。決して軽い部類ではないキリーの身体は軽がると浮き、そのまま首を捕まれたまま壁にたたきつけられる! 僅かに間をおいてむせるキリー。その瞬間、口の中に苦いものが広がった。つぅ・・・と口端を赤い鮮血が伝う。だが、この状況下でもキリーの笑みが消えることはなかった。 「くくっ・・・楽しいか? ぎりぎりの命のやり取りがよ。ふん、そうだろうなぁ。貴様も・・・本質の部分では俺と変わらんのだから・・・!」 貴様に俺のもう一つの能力を見せてやる。 歯茎を見せ、ニアッと笑うフォルク。不意にキリーの右手から閃光が走り、フォルクの右腕に襲い掛かった! ひどく耳障りな音を立て、フォルクの右腕の筋肉繊維がちぎれる。だが、その力が緩むことはない。危険なバランスを保ち、キリーの身体がまたゆっくりと地面から浮き始めた。同時に脳へと送られる酸素量が減り、網膜に霞みがかかる。 「さぁ、貴様の心をさらけ出せ・・・!」 左手でがしっとキリーの頭を掴む。めきっと音を立て、頭蓋が歪むのを確かに感じた。刹那、意識が深い闇へ落ちていく――。 −さぁ、貴様の心をさらけ出せ・・・! どこかでしゃがれた男の声が聞こえていた・・・。 キシッ・・・っとベッドが軋む。夢の中にいたと思ったのだけど、どうもそうではないらしい。 少し、苦しかった。 ふと視線を横に向ける。ぼくは紅いシーツの上に横たわっていた。ガーネットの深紅・・・そう、あの人の好きな色だ。鮮やかな、それでいて深みのある紅・・・。 また少し、苦しくなった。 視線を正面に戻す。そこに、あの人がいた。見事な肢体を晒し、僕の上に乗っている。彼女の左手はまるで別の生き物のように僕のお腹のあたりをまさぐった。 少し、痛い。 『愛しているわ、キリー・・・』 甘い声でそっと囁いてくれる。ぼくはこの声が大好きだった。ぼくもだよ・・・そう答えたいけど、声が出なかった。代わりにその背中にそっと指先を這わす。ぴくりと反応するのが密着した身体を通して伝わってきた。 『愛しているわ、キリー・・・』 僅かに潤んだ瞳。ぼくはこの人の表情が好きだった。子猫のように変わるこの表情に、一体どれだけの人間が心奪われたことだろう。でも、今はぼくだけのものだ。 『愛しているわ、キリー・・・』 彼女の右手はぼくの首に添えられていた。愉悦に満ちた表情。戦慄く唇の端が醜い形に歪んでいた。時間をかけ、ゆっくりと指先がのどに食い込んでいく。 『愛しているわ、キリー・・・だから、あなたは私だけのものになるのよ・・・?』 ずるりと音を立て、左手が引き抜かれた。ぼくのお腹の中から。紅く染まったその手をいとおしそうにほおずりして、指先を真っ赤な舌先で舐める。ぞっとするほど妖艶な仕草・・・。 湿ったシーツ、かえてほしいな。頭のどこかでそんなことを考えてみる。ぴちゃりと音をたて、シーツの端から紅い雫が毛足の長い絨毯に落ちる。絨毯もこの人の好きな紅に染まっていた。 『貴方は私のものになるのよ・・・イヤじゃないわよね? だって、私はあなたを愛しているし、あなたが私を愛してくれていることも知っているもの・・・だから、ね・・・?』 骨の軋む音が確かに聞こえた。 そうだね。でもね、ぼくが愛したのは・・・、 そっと、壊れ物を扱うように両手を彼女の下腹部に添える。 そんな醜い顔をする人じゃないんですよ。 ぼむっ・・・と鈍い音と同時に、天井に紅い花が咲く。彼女は少しびっくりした表情の後、いつもの、ぼくの愛した笑顔を見せた。そして、触れてしまえば折れてしまいそうな細い両腕でぼくの身体を抱きしめる。 そう、その顔ですよ。 やがて天井から落ちてきた雫は、ぼくの顔も同じ色に染めた。ぼくはにっこりと微笑んでみせる。 ああ、綺麗な色だ。そうは思いませんか? かあさま・・・ きしりと骨の軋む音が確かに聞こえた。 「・・・どうだ。思い出したか? いいかげん、貴様の本性を――ングッ・・・!」 フォルクの言葉は途中で途切れた。その口をキリーの左手が塞いでいる。 「やれやれ・・・意外とおしゃべりですね、あなた。でも、耳障りな声は聞くに堪えませんから・・・」 ズン・・・とフォルクの左手が手首までキリーの鳩尾にめり込む。べしゃっとあたりに鮮血が飛び散った。だが、キリーはまるで意に介さず、フォルクの口から顎にかけて握り砕く! 「・・・ゴ・・・クフッ・・・!」 それでも首を掴んだ右手は離すことなく、むしろ更に力をこめる。だが、 「うざいんですよ・・・」 右手で軽くフォルクの腕を握る。少なくとも、表面上はそう見えた。しかし、実際にはぐしゃりと音を立て、何の苦もなく腕が砕け散る。 「ゴボ・・・ゴ、ゴンナゴドガ・・・!」 「まぁ、所詮はあなたも死人ですからねぇ」 ようやく自由になったキリーはまず上着の乱れを直し、ぽんぽんと身体についたほこりを手で払い落とした。そしてフォルクに向かって右手を見せる。その右手は、霊能力のない者にもはっきりとわかるほど、強い霊気を纏って銀色に輝いていた。 「≪奇跡の御手≫はご存知ですか? その昔、中世の王族は皆、触れただけで病気を治すといった奇跡を起こしたそうですよ。もっとも、この力とそれとが同等かどうかなんて私は知りませんけどね。ただこの力、死人還りのあなたには少々きついのでは・・・?」 口端をゆがめてにやりと笑う。悪魔的な、妖艶さを纏った笑み――。 フォルクは動けなかった。否、動くことを精神が拒否していた。理由などわかるはずもない。だが、それは魂の欲求にも似た感覚なのだろう。 キリーは優雅に一礼してみせる。そして右手をフォルクの頭頂にそっと置き――、 一気に引き裂いた。 断末魔も何もない。ただ、まるで生乾きの紙粘土細工が爪先で削られていくような光景だった。そして、削り取られた部分からぼろぼろと崩れ去っていく。フォルクの全身が完全に分解されるのに、それほど時間は要しなかった。 その様を最後まで見届けるまでもなく、キリーは部屋の片隅でがたがたと振るえている、おそらくは【月の谷の民】の最後の生き残りに近づいていく。 仰向けで転がる男は、ただその動きを目で追うことしか出来なかった。助けを求めた相手が、実は更に性質の悪い人間であることに気づいたのだ。 「た、助けて・・・」 涙声の懇願に耳を貸すことなく、キリーは男の額にそっと手のひらを添える。傍から見れば、それは助けを乞う哀れな男に手を差し伸べる神父の姿に見えなくもない。 男は40近い、頭髪に白いものが混じり始めた人物だった。どことなく顔に見覚えあることに気づき、それがここにくる前、公にできない資料の中で見つけた【月の谷の民】の資料に載っていた幹部の一人であることを思い出す。無意識のうちにキリーの口元に嗜虐的な笑みが浮かんだ。その様を見た瞬間、男は奇妙な悲鳴をあげ、隠し持っていた銃を向ける。すかさず、発砲――。銃声は六度、すべてまるで標的のように紅く染まったキリーの身体に着弾した。うち、何発かは身体を貫き、乾いた音をたててその後方の壁にめり込む。だが、キリーは僅かに眉をひそめただけだった。 「あまり・・・抵抗しないほうがいいですよ・・・?」 キリーは静かに呟いた。別にすごんだつもりはないが、明らかに男には怯えが走った。刹那、キリーの右手の親指がずぶりと男の左眼に突き刺さる。 「い・・・ギィァァァッ・・・!」 反射的にトリガーを引く。だが、すでに弾を撃ち尽くしている為に、カチャカチャと虚しい音を奏でるだけだ。 「ああ・・・ほら、いったでしょう? 私だってね、こんなことはしたくないんですよ」 少し困った表情を浮かべ、今度は左手を男の鳩尾あたりに添える。 「な、何を・・・!?」 まだモノを観ることのできる左眼は、キリーの左手に淡く光る鋭利な“何か”を確かに映していた。 「貴方、少し血の気が多いようですからね。調整してあげますよ。ああ、遠慮なさらなくて結構ですよ。すぐに済みますし・・・」 いうやいなや、僅かに左手が動く。男は痛みをほとんど感じなかった。いや、もはや麻痺してしまっていたのかもしれない。ただ、パクリと腹が縦に裂けるのだけは見えた。一瞬遅れ、ずるりと臓物が出てくる。男はいっそ気を失いたかった。瞳を閉じたかった。だが、まるでその思考は反映されず、瞬きすら忘れた状態でそれらの様をしっかりと瞳に焼き付ける。 「いい色をしていますね。貴方のほうがよっぽど適していたんじゃないですか・・・?」 白魚のような指先が臓物のひとつに触れた。びくりと男の身体が痙攣する。痛みではない。それはむしろ快感に近かった。すでに脳内モルヒネの分泌量は致死量をはるかに上回り、思考もままならない状態である。だが、僅かに残った感覚は、その快感だけを確かに求めた。 「・・・あう、あ・・・ヒィッ・・・」 「答えなさい。“彼女”は・・・ミリシェ・ランバートの遺体はどこです・・・?」 右手の人差し指がずぶずぶと少しずつ左眼に沈んでいく。沈むたびに男の身体が小刻みに震えた。苦悶と恍惚の入り混じった、ひどくアンバランスな表情を浮かべて。 「知っていますよね? 10年前、あの男が殺した母親ですよ。あの現場に残された遺体の中に、貴方方の仲間が何人かいた・・・そう記憶していますが。どこかに遺体を隠したんじゃありませんか・・・?」 親指を器用に動かし、眼球を抉り出す。どす黒い血に塗れたどろりとした“それ”は、男の首筋を伝ってべしゃりと床に落ちた。 「さぁ・・・いわないのならやめますよ・・・?」 男の唇が僅かに動く。もはや声にはなっていない。だが、キリーは満足げに頷いた。 「・・・わかりました。これで貴方の役目も終わりですよ」 そう呟くと、キリーは一気に内臓を引きちぎった。びちゃっと鈍い音を立て、あたり一面に鮮血を撒き散らす。男はヒイィッ大きく息を吸い込み、絶命する。だが、その表情は恍惚としていた。 「やれやれ・・・血がとまりませんねぇ・・・」 一歩歩くごとに頭の奥のほうで鉄球が転がるような、そんな鈍痛が続く。別に命を落とすことに未練はないが、この痛みだけはいただけない。いっそここで横になってしまおうかとも考えたが、それではミリシェの依頼に答えられない。 捩れた足は霊治療による応急処置を施していた。ニ、三日もすれば元のアストラル体に戻るだろう。 「まぁ、暇つぶしにはなりましたけどね・・・」 キリーがやってきたのは、今は水の枯れてしまった小さな川にかかる、不相応に立派な木製の橋の袂だった。一時は人の往来も激しかったのだろうか。少なくとも今は人気がない。先程まで居た建物から、30分も歩いていない場所だ。もっとも、このような状態で体内時計が正確に機能しているとも思えなかったが。 川底に下り、橋の下に近づく。そこにミリシェは立っていた。 「待たせてしまいましたか? こんな格好で申し訳ありませんね」 キリーは赤黒く染まった法衣に目をやり、心底申し訳ないという顔をする。ミリシェは無言だ。いや、もはや彼女の姿は幻覚だったのかもしれない。そして、これまでのことも。だがそのこともキリーにとっては大した問題ではなかった。 僅かに湿った地面に両膝をつき、両手で土を掘り始める。幸い、それほど力いっぱい掘らなくても土はかき出せた。肉体労働の苦手なキリーにとって、これほど幸運なことはない。 作業はほんの10分ほどで終わった。土で汚れた指先にぼろきれのようなものが触れる。 「ああ、ようやく会えましたね? ミリシェ・・・」 土中から姿をあらわしたもの。それはすでにぼろぼろになり、原型すらわからぬ衣服に身を包んだ白骨だった。ミリシェである。証拠はないが、キリーは確信していた。 薄氷に触れるように細心の注意を払い、土のベッドから抱き起こす。 「中々楽しかったですよ」 そういってにっこり微笑む。刹那、一陣の風が吹き・・・、衣服と骨は脆く崩れ去った。後には欠片一つ、残らない。 「・・・やれやれ。出会ったときもそうでしたが・・・別れも唐突な人ですねぇ」 名残惜しそうに呟き、立ち上がる。もはやこんなところに用はなかった。 「終わったみたいだな」 いつのまにか橋の手すりに黒髪の青年が腰掛けていた。 「・・・誰です? 貴方・・・」 初めて見る顔だ。だが、どこかで出会ったことがあるような、そんな印象も受ける。 「ま、そんなことはどうだっていいじゃねえか」 「そうですね」 思ったまま口にする。その答えは予測していたのか、相手は不敵な笑みを浮かべた。そして手にしていた小さな小瓶を放ってよこす。中には毒々しい赤色の液体が入っていた。 「・・・なんです? これ」 「滋養強壮剤・・・みたいなもんだ。あんた、そのままじゃ死ぬぜ?」 「気が向いたら飲みますよ。それでは失礼」 道路に戻り、青年に背を向ける。彼の後ろに一台の車が止まっているのが視界に入った。送ってもらおうかとも思ったが、即座に頭の中から消し去る。出血はいつのまにか止まっていた。散歩がてら、歩いて帰るのもいいだろう。 「見たかい? 姐さん」 綾沙は運転席に戻り、後部座席の人影に声をかける。その瞬間、ゴスッ・・・と鈍い音が車中に響いた。綾沙の後頭部辺りに木刀がめり込んでいる。 「その呼び方はやめなさいって。殴るわよ?」 「・・・殴ってるって・・・」 ささやかな抵抗が受け付けられることはほとんどない。案の定、何事もなかったように言葉が返ってくる。 「で、“どう”なの?」 ひょいと前の座席に顔を覗かせる。女性だった。まだ若い。15、6というところか。綾沙と同じ、漆黒のツヤのある髪を持っている。 「彼とはまた会えますよ」 痛む頭をさすりながら発車させる。 「そう。ならいいわ」 女性は綾沙の回答に満足し、短く答えた。 「ええ。それもそんなに間をおかずに、ね・・・」 奇妙な確信をもって綾沙は呟いていた。 【scene.present】小さいノックの後、豪奢な両扉をくぐって美しい青年神父が姿を現す。窓際に立っていた女性は瞳を輝かせて駆け寄り、そのまま抱きついた。年の頃は二十代後半というところか。真紅のドレスがよく似合っている。しかし、露出されたその肌は未だ瑞々しさをまったく損なっていなかった。 青年がそっと腰を抱くと、女性はうれしそうに微笑んだ。しばらくそのまま身体を預け、やがて名残惜しそうに身体を離す。やわらかな金髪から陽の匂いが微かに香った。すると、 「もう…待ちくたびれちゃったわよ?」 少しほほを膨らませ、腰に手をあてた。だがその表情は喜びを押さえきれないでいる。 「すみませんねぇ。少し、忙しかったもので」 キリー・クレイトンはにこりと笑みを浮かべた。 「では、そろそろいきますよ」 四杯目のローズティーを飲み干したところで、キリーはソファーから立ち上がった。その隣で身体を寄りかからせていた女性はびっくりした表情でキリーを見つめる。 「もういっちゃうの?」 「ええ、嫌いな人がきましたから」 その言葉と同時に扉が開き、目つきの鋭い男が部屋に入ってきた。頭髪には僅かに白髪が混じっているが、その背はまるで二十代のようにぴんと伸びている。彼が五十過ぎであるといっても誰も信じないだろう。何気なく身につけている衣服は、どれもまるで値札を間違ってつけたとしか思えないような高級品ばかりだ。だが、それをまるで嫌味に感じさせない。見事に着こなしているのだ。 「私…あの人嫌い」 キリーの腕に抱きつき、小声で呟く。必要以上におびえた表情をしていた。 「大丈夫ですよ。少なくとも、あなたに危害を加えるような真似はしないでしょうから」 少なくとも、私が生きているうちはね。 そっと絡めた腕を放し、背を向ける。慌てて女性の手が彼の背に伸び、やがて行き場を失って力なく垂れ下がった。 「珍しいな。貴様がここにくるとは?」 すれ違いざま、男から声をかけてくる。 「…あなたに不都合なことなどないでしょう。ただ、自分の母親を見舞っているだけです」 足を止め、答える。 「ふん、あんな身体にしたのは貴様だろうが」 「皮肉のつもりですか? 父さん」 肩越しに相手を見つめ、答える。口元には笑みを浮かべたまま。だが、その瞳は何の感情も持ち合わせていなかった。わずか数秒、視線が絡まる。先にはずしたのはキリーだった。 「それでは失礼…」 部屋を出ると、キリーは肺腑に溜まっていた空気を吐き出した。例えようのない不快感に思わず口元に手をやる。 「今はまだ…貴方の手の中にいて差し上げますよ…」 ククッ…と喉の奥を鳴らす。 「あの…どこか気分でも悪いのですか…?」 いつのまにか目の前に一人の女性が立っていた。服装から推測するに、彼の両親の家であるこの屋敷で働くメイドの一人だろう。金髪碧眼の女性は、恐らくは純潔のアーリア人に違いない。あの男らしい…言葉には出さず、代わりにいつものアルカイックスマイルを浮かべる。 「あなたの声を聴いたら気分がよくなりましたよ。もしよろしければ、その辺りでお茶でもどうです? ああ、申し送れました。私、キリー・クレイトンと申します」 「あ、はい…リリス、といいます…」 「いい名前ですね。では、行きましょうか?」 まったく自然体でその背中をそっと抱いて歩き出す。今は一刻も早く、あの男のいるこの屋敷から離れたかった。その為、彼は気づかなかった。普段の彼なら、女性の微妙な表情の変化からその深層心理まで見通してしまうにもかかわらず。 「ええ、そうですね…」 戸惑いながらそう呟いた女性の口元に、魔性を感じさせる微笑がほんの一瞬だけ浮び、そして消えていった…。 あとがき... はじめまして。みゃあと申します。 |